教師のプロ意識 「何をもってして教師と言えるのか。」
- Shinwa Miyachi
- 1月25日
- 読了時間: 2分
このブログを始めた理由の一つに、「何をもってして教師と言えるのか。」という、
教師をしている自分に対する反抗心と言いますか、反骨心と言いますか
そんな心の生み出す問いが渦巻き続けているからでした。
それこそ、教師となって5年目のあたりまでは
「何をもってして・・・」なんて思っているうちに
いろいろなことが湧いては消え、湧いては消え、
気づけば時間が過ぎていっているような、そんな感覚でしたから
自問したこともすぐに流されていきました。
二十歳を祝う会へ行って、教え子たちに再会すれば、
きっとその答えは出るだろうと、そう思って教師を続けてきていました。
教え子との再会は、心の底から幸せな瞬間でした。
義務教育最後の担任を、たまたま任していただけたというだけで”恩師”と呼称されます。
(なかなかこの名前には慣れない、いや成れない)
かつて中学生だった教え子の残像を、今目の前に立っている二十歳の姿と重ねる。
5年かけたその人の成長を、瞬間的に感じられたのは、形容し難い喜びでした。
「ああやはり教師というのは、今を見ながら未来を育てているのだ」と、
そう思えた瞬間でもありました。
育つ過程に立ち会えることの尊さ、すばらしさ。
そして実は育てているようで、一緒に育っていることの自覚。
そんな気づきを、教え子から与えてもらっています。
けれども、自分を納得させるに至る答えには辿り着けない。
「何をもってして教師と言えるのか。」
今も迷いに迷っています。
教師は、今を見るだけなのか?
今を見るだけで、お金をもらっているのか?
いやいや、お金をもらっているプロであるならば、
今目の前にいる人に教えるんでしょう?
・・・何を?
冒頭に書いた「何をもってして教師と言えるのか。」
この問いを私は、自分の頭の中で、
「教師が、”教えるプロ”たる所以は何なのか。」
「何を教えることで、お金をもらっているのか。」
「教師である私の、何に価値があるのか。」
と、言葉を取っ替え引っ替えし、自問自答しつづけているようです。
言うなれば、”教師としてのアイデンティティ”とでもいいましょうか。
教育する人の中でも、”教えるプロ”である教師。
何を教えることで、お金をもらっているんだろう。
教師7年目の頃、その迷いがピークに達します。
その迷いの中心にあるのは、教師が学校という場所で大半を費やす時間。
授業でした。
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