探究は、”賢い”人にしかできないのか。vol.1
- Shinwa Miyachi
- 2月11日
- 読了時間: 4分
更新日:2月16日
最近、探究活動やそれをプレゼンテーションするには、基礎学力が必要なのではないかと考えている。(とある先生からの言葉)
探究活動の実践例を見る機会がありました。
『RISE: VOICE OF A NEW GENERATION (立ち上がれ、新世代の声) 』という映画です。
残念ながら、他の予定とのブッキングで私自身試聴できなかったものの、
試聴後のトーキングセッションに飛び入りで参加させていただきました。
その中で自分自身気になった話題が、とある先生からの冒頭の言葉です。
あの映画の中に出てくる生徒は”すでに”賢い。
あの賢さをもってしていなければ、真の探究というのは難しいんでは?
と、そういったような投げかけをいただいた認識をしています。
賢さとは何か。
で、賢さと言ってもぼやっとしているので
賢さとは何なのかと投げかけました。
ある人は、「読み、書き、算」だと答え
ある人は、「小学校6年生までの。。。」だと答え
ある人は、「話してりゃわかること」だと答え
またある人は、というか僕は「行政の書類を読んでかけるくらい」だと答えました。
「行政の書類を読んで書けるくらい」と言ったのは、
半分本心で半分ふっかけたところはあります
行政の書類に書いてある言葉の意味を理解し、必要な手続きをとることができる。
あるいは、よくわからないところがあれば問い合わせをして話したり聞いたりできる。
おそらく現在のこの国においては、誰しもが通る道であるこの手続きを、
完遂できるかどうかというのは、賢さの基準のひとつになるのでは?という
思いつきでした。
そのあと、もう半分の本心として思っていることを伝えました。
「賢さとは、言葉を丁寧に扱えるかどうかである」
それぞれの言葉に内包されている意味をむやみやたらに同じとしてしまうのではなく、
言葉の境界線を認識しながら(あるいは構成しながら)使い分けていく。
「等しい」の意味
その先生と話をしていたのは、”等しい”という言葉の意味でした。
その先生曰く、小学校低学年のあたりで等しいという意味をもつ”=”という記号に出会う。ただし、言葉では”等しい”という言葉に出会っていないため
”=”という記号の意味と”等しさ”という言葉の意味をリンクさせることが難しい。
が故に、計算式というように”式”と言われるものをみると”=”を使用したくなってしまう。(あくまで私の推測ですが)
化学の分野においてよく見られる事例ですが、化学反応式を書き始めた生徒によく見られる傾向として、その式の中で”=”をしようしてしまうことがよくあります。(化学反応式の左辺と右辺は矢印でつなぎます)
「式とは、”=”という記号を使用して組み立てられるものだ」という認識を持つ生徒たちは、”=”という記号自体に内包されている意味を考えたことがないために化学反応式の中で”=”を使用してしまうわけです。
「嬉しい」と「楽しい」のちがい
これは私の娘と話す時によく聞くことです。お布団に入ってから娘が「今日楽しかったことはなに?」と聞いてきます。えっと・・・あなたと公園に行けたことかな。と適当に答えると、娘から「それは嬉しかったことじゃない?」と一言。
我が娘ながら恐ろしいなと思いました(親の七光りであることは百も承知です)。
確かによく考えてみれば、公園に行けたという経験から生まれてきた感情は嬉しいのであって、「楽しかった」であればその公園での状況についてもう少し具体的に言及する必要があります。たとえば「公園でおにごっこをしたことが楽しかった」というように・・・。
このような話をああでもないこうでもないと話していくうちに、上記のような賢さが探究には必要不可欠だとそういう話になっていきました。
「賢さとは」という問いは、非常に重要な問いだと感じた一幕でした。
我々は教育する人として、この問いに対する自分なりの意味づけをし続けることは
彼らに何を教えるのかという壮大な問いに対するひとつのEssential Elementになりそうだなと気付かされたからです。
今回は賢さについてスポットを当てました。まだこの話には続きがあります。
で、結局探究は”賢い”人にしかできないのか。ということです。
これは探究という言葉の捉え方自体にどうやら違いがあるようだということが
話していくうちに見えてきました。
(続く)
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