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探究は”賢い”人にしかできないのか?vol.2

  • 執筆者の写真: Shinwa Miyachi
    Shinwa Miyachi
  • 2月14日
  • 読了時間: 5分

更新日:2月16日

最近、探究活動やそれをプレゼンテーションするには、基礎学力が必要なのではないかと考えている。(とある先生からの言葉)

探究活動の実践例を見る機会がありました。

『RISE: VOICE OF A NEW GENERATION (立ち上がれ、新世代の声) 』という映画です。

残念ながら、他の予定とのブッキングで私自身試聴できなかったものの、

試聴後のトーキングセッションに飛び入りで参加させていただきました。


その中で自分自身気になった話題が、とある先生からの冒頭の言葉です。

あの映画の中に出てくる生徒は”すでに”賢い。

あの賢さをもってしていなければ、真の探究というのは難しいんでは?

と、そういったような投げかけをいただいた認識をしています。



探究 vs 基礎学力という二項対立から見えてきたこと

 

この手の議論は、各所様々で擦られまくってきていることかと思います。が、この場でもこの二項対立を切り口に「探究って何なの?」という話になっていきました。


ここでいう基礎学力という言葉を仮に「小学校6年生までに習う読み書き算」としましょう

先か後かという議論であれば、

探究が先なのか、基礎学力をつけるのが先なのか。となるし、

量の議論であれば、

探究に時間をとるべきなのか、基礎学力をつけることに時間をとるべきなのか。となる。


結論から話すと、私は探究と基礎学力という2つの領域間をグラデーションで捉えています。そして基礎学力と探究は並列に並んでいると捉えています。

これは一緒に話をさせていただいた先生とのちがいから見えてきたことでもあります。



私の考えである前提を2つ書き留めます。


  • 前提1 「探究 / 基礎学力と切り分けなくてもいい」

    これは以前に勤めていたインターナショナルスクールでの経験、そして国際バカロレアのPYPプログラムを自身が授業者として実践した経験が強く影響しています。

    そもそも私の勤めていたインターナショナルスクールは、”教科”がほとんど存在していませんでした。(体育、音楽、習字は専科の時間としてあった)そこでの授業時間はほとんど全ての時間が”UoI(Unit of Inquiry)”と名付けられていました。あえて日本語を使用すれば探究の単元とでも言いましょうか。

    なので授業者はこの時間を国語の時間として作文しましょう!としません。UoIの時間の中で、作文の必要性が出てきた時に作文をします。例えば現実世界で起こっている問題をコミュニティに伝えるためのエッセイを書こう、となった時です。そこで、国語の書く能力として必要な”読み手が読みやすい作文構成”の力を身につけさせるために「はじめ、なか、おわり」を意識して作文する。というようなことをします。これをもし基礎学力とするならば、とにかく基礎学力をつけるんだ!ではなく、現実の文脈の中で必要性に迫られて基礎学力をつけるということが奨励されている場所でした。

    そのような場所では、探究と基礎学力を切り分けるという発想がそもそもなく、いかにUoIの中で基礎学力をつける場面を授業者が見出せるかというような考え方でした。



  • 前提2 「探究は、うまくいくことを想定していない」

    探究の定義づけで今のところ一番しっくりきているのは、

    株式会社MIMIGURI さんのCULTIBASEというサイトで示されている説明です。

探究の対比は目標から合理的に逆算すること
関心から順算することを探究モードと呼んでいる
起点は衝動、戦略的にあとから意味づけをすることもある
「こうなるだろうな」がわかっていないということが重要
好きなことを仕事にするとは異なる話
自分の取扱説明書、喜怒哀楽のツボを知る営みでもある

これらの項目を私なりに抽象化してみると、

探究はうまくいくことを想定していない。です。

少し言葉を変えると、できる!と思って飛び込む探究はない。といいましょうか。


探究は、探究のためにあらず。結局のところよくある言葉を使えば自己実現のため。

ただし、巷でいう自己実現と少しニュアンスが違うのは、起点を未来・他者に置いていないこと。起点は現在・自分。


よくわからないからこそ、できないからこそ、チャレンジングなことだからこそ、

やってみて困難にぶつかる。その失敗から自分に足りていないことを学ぶんだ。

だから、学ぶんだ。


 

この2つの前提をもとに、探究という言葉を捉え始めると、探究と基礎学力の関係性が変わって見えます。基礎学力があってはじめて探究なんだ。というよりも、探究と基礎学力の間には常にグラデーションを帯びた繋がりがあり、「どちらが先か後か」であったり「どちらが上か下か」であったりと議論することはナンセンスに思え、むしろ「どちらも並列にならんでおり、どこから入ってどこへ抜けていくのか」というイメージをもちます。



前回の”賢さとは何なのか”の話も踏まえて、まとめると

  • 賢さとは、言葉を丁寧に扱えること。

  • 言語を丁寧に扱うためには「読み書き算」のような基礎訓練も必要。

  • 探究と基礎学力を切り分ける必要はない。

  • 探究が先か、基礎学力が先かという議論も必要ない。

  • どこから入って、どこへ抜けていくのかというイメージ。


昨今の巷に溢れる”探究”という言葉を改めて再定義する機会を今回の対話ではいただきました。



 
 
 

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